ワイン日記1
せっかくほぼ毎日ワインを飲んでいるので記録をつけてみようかな、という気になった。
飲んだことあるっけ?ってなる。
昨日家の立派な赤ワインをごくごく飲んでたら、そんなに野蛮に飲むなら自分で買って。
と言われてしまったので、400円のワインを買ってきました。
LADERA VERDE WHITE NV
昨日から「ゴッホの手紙」という本を読んでいます。
ゴッホが親友に宛てた手紙を、その友達が編纂した本で、どきどきする本です。
ゴッホって友達思いで、慎み深いです。
ゴッホの手紙を読んでいると高校生のときのメールを思い出しました。
これは私の友人、檸檬さんの友人である古書店主に勧めてもらった本です。
だからなんか、ゴッホの絵みたいな、しっとりキラキラした、
自然の華やかさが感じられるような、ワインが飲みたいなあと思って(スーパーに求めるにしてはハードル高いな)
陳列棚の説明文をよくよく読んで選んだ。
「柑橘の風味、白い花の香り。」
白い花の香りってなんて素敵なんだろう。
シニカルにみようと思えばいくらでも意地悪なつっこみができるワインだけど、
私はどんなワインもおいしいし素敵だ、っていいたい。本当は。
後ろめたさを感じないですべての飲食物をおいしいっていえる単純さと信心深さをもう一度持とうかな、と思う今日この頃。
本
映画と本だったら、本の方が絶対キケンだと思う。
映画は画面を客観的にみる。
映写機がスクリーンに映像を映して、その映像を見る。
本は、本が映写機だとしたら、映写機は直接私たちの脳やら心やらに映像を映す。
本は不可避的に私の物語になる。
今日、蛇にピアスを読んで、落ち込みすぎて頭痛と吐き気がして
受験勉強中は、やっぱ本より映画だなとおもった。なんというか、映画はぬるいとか、そういうことがいいたいんじゃなくて、単純に本の個人的で閉塞的な性質が、洒落にならないくらい脳にくるな、って。
本でダウナーになる効果を私はひそかに太宰ショックと呼んでいる。
しかしこのキケンすぎるところが本の魅力でもあって
本を読なさいとよくいわれていた小学生や中学生のころは、
本は健全堅実つまらんの権現みたいなイメージでしたが、
ほんとは本ってまじ、ゃばくって、少なくとも酒よりまじやばい。
かもめのジョナサン
「かもめのジョナサン」を初めて読んだのは、もう5年ほど前だと思う。
そのころは、なんだか当たり前のことばかりが書かれているお伽話だ、と思った。
人生で大切なのは、食べることじゃなくて、向上することであり、
私たちは自由と愛に生きるのであると。
しかも、カモメが主人公で、そのカモメが、「われわれ一羽一羽が、まさしく偉大なカモメの思想であり、自由という無限の思想なのだ」などと大仰なことを言っていて幾分興ざめした。
しかし、久々にこの本を読んだら随分面白く感じた。
書かれていることが、当たり前ではなくなっていたからだ。
それは、歳をとって、新しい知見を獲得したから、というよりはむしろ、
歳をとってアホになっていたからである。
好きなこと、ジョナサンでいう「飛ぶ」ということを、
寝ることも食べることも惜しんで好きなだけやる。
自分は自由であって、飛ぶことを何によっても抑制されることはい。
そういうことの実感を、もう長い間感じていない。
働いて、お金を稼がないとごはんも食べられないし、お風呂にもはいれない、家に住めないし、人にプレゼントをあげることもできない、本もよめない、絵の具も買えない、よい布団で眠ることもできない。
経済的自立なしに、精神的にも自立できない、と思う。
だからこそ、自分が生活できる分を稼ぐことは、最低限であると思っている。
できれば、人を支えられるくらい。
そんなこと、「働くこと、お金のこと、死ぬまで金に困らず生活できる」ということを
すべての基礎であるとして、最優先に、ここ数年考えていたと思う。(そうであってかつ、楽しめる方法を)。
そうしているうちに、自分が自由であることとか、完全を目指すこととか、ジョナサンが言うところの「生活の豊かな意義」を後回しにしていて、いつしかよくいる大人になって、そういうことを忘れていったのだと思う。
長老は「妙なものだな。(食べるために)移動することしか念頭になく、完全なるもののことなど軽蔑しておるカモメどもは、のろまで、どこへも行けぬ。完全なるものを求めるがゆえに移動することなど気にかけぬ者たちがあっというまに、どこへででも行く。」という。
ジョナサンの思想は若者にとっては当たり前のことで、生きることに心配のない被扶養者は簡単に実践できても、一人っきりになった段階で、少し社会に殴られると、気持ちを強く持っておかないと、あっという間に忘れちゃうことだ、と思った。
ジョナサンは、群を追放されて、天涯孤独になるけれど、それでも飛ぶことをやめなかった。そこんところが、良いと思った。
言葉のない子供 「すいかの匂い」江国香織
子供のころの記憶はなんだか不安で、悲しくて、心細い。
それはその当時言葉を持っていなかったからだと思う。
言葉を持っていないから、子供は気持ちを言葉にあてはめられない。
気持ちはただ胸のなかで広がるばかり。
それが何なのかわからず、分類も分析もできず、ただただ実感が沸く。
夕焼けや友達の表情、冷たいマンションの壁とか、でこぼこのコンクリート
爪の隙間の砂利、そんなものと並列して漠然とした感情がある。
江国香織の、子供の感覚をそのまま表現しているところがすごいと思う。
大人が言葉を使って子供の心を描いているのだけれど、
その大人の言葉で私たちの子供のころの感覚を生のまま浮かび上がらせるのだから、
たまげたものだとおもう。
自分自身さえ忘れていた感覚が、江国さんの本を読んでいたら復活する。
たちまち7歳の子供みたいに心細くなる。
「すいかの匂い」はとくにそんな本だった。
数年前に一回読んだだけなのに、夏になると思いだす。
子供のグロテスクな感覚、人間の素っ裸なきもちを心臓に刷り込まれるような
ちょっとトラウマな本。
子供の熱気と湿気、当時大して食べたいと思わなかったスイカの、べたついた香りがこの本から沸き立っているよう。
別に好きな本ではないけれど(江国さんならウエハースの椅子とかのほうがずっと好き)、印象に強く残った。