2・窓・葱

飛行船に乗りたいです。

変な拘りに妥協してる話

パソコンに保存されてるワード見てたら変なの出てきた

今はこんなこと書く情熱ないな

無駄に文体がおじさんぽいのはなんなんだろう

おもしろいから載せる

五年前の自分にこれ公開したっていったらヤメテーって言うだろうね

半分ギャグ、半分哀愁

f:id:noumisosoup:20130219095145j:plain

___________

 

 他者に痛みを悟られないよう、ぐっと自己の中で痛みを堪える。このような意思は、ともすると超人的で気高いことであると武者小路実篤はいう。私もそのことは物心のついたころから弁えていた。私にとってこの見解は考えてそのような結果に行き着いたというより、直感的に感じていたというべきだろう。痛みを感じて直接的に「痛い」と発言する者より、痛みをまるで何も感じていないかのように平然と振る舞う人物の方が格好よくないか。「痛い。痛い。」と喚く者の、そのアピールの理由は多種多様であろう。最も、痛いと思ったから痛いと言ったに過ぎないという理由が大半だと思われるが。では、痛みを悟られないようにする人物の心境はいかなるものか。それも色々であろうが、他者に心配をかけたくないというのが真っ当であると思う。他の理由があるのかと疑問に思われるかもしれないが、ある。例えば他者に心配をかけたくないという考えなんて実はさらさら無い。しかし、そのように振る舞うべきだと心得ているからそう振る舞う。また、そのような格好をして周囲に尊敬の念を抱かれたい。などという猪口才な考えから痛みを堪え、なんともないような涼しい顔をする者もいるといいうことである。というか私自身に伺えることなのであるが。

 生来痛みを露出することは格好が悪いと思っていた。痛いからといって「痛い。痛い。」と言うのは三流のすることだと心得ていたのである。そして私は痛みを悟られないことを信条としていた。とはいっても自分は三流ではなく、一流の人間であるために、そのように振る舞おうとしていたわけでは決してない。その逆で、自分は自分を三流中の三流、汚らしい人間だと重々自覚しており、その現状を脱して、清い人間になりたいと熱望しているが故なのである。痛みを堪える精神の強さ、しかも人の同情を惹くなどということを望まず、他者に心配されないように痛みを堪える態度はまさに偉丈夫である。そうと知ったなら模倣せずにはいられない。偉丈夫になるために私は邁進。

 痛みを堪え何くわぬ顔をする。そうすること自体は容易であった。15歳までそうしてきた。しかし、痛みを堪え隠すということを、他者に迷惑、心配をかけたくないという一心でしているのならよいのだが、私はそうではなかった。本当は心配をかけたくないなどとは、大して思っていなかった。しかし、だからといって「痛い、苦しい。」などと言うのはどうかと思う、格好が悪い。そうするより痛みを隠す方がずっと美しいと思った。また目算もあった。現在、自分は邪心に溢れていて他者へ心配をかけたくないと、頭では考えても心の底からは思えない。しかし、いずれそのように心から思えるようになるかもしれない。取りあえず今は表面だけでもそのように振る舞おう。そうしているうちに行動と心が呼応して真の偉丈夫になれるかもしれない。

 しかし、心の底から人に心配をかけたくない、と思ってもいない輩がこの美行を続けるのは想像以上に厳しいことであった。そしてなかなか行動と心は呼応しなかった。10年程行動していても心との矛盾は解消されなかったのだ。今思えば当然であった。それは心が汚いからなどという胡散臭い理由ではなかった。それは他者が痛みを感じているのに対して滅多に心配しないという私の性質に起因していた。心配する者の気持ちがわからないのに心配させたら悪いという思想を抱こうとするのは少々無茶である。心配しないという性質は私の育った環境に依るものである。私は幼少のころから転んでも、熱がでても、絶望しても「大丈夫?」とは一遍も家族に言われた事が無い。そしてそれによって心を痛めるなどということはなく、これが当たり前であった。無論、熱が40度で発狂、ダンプカーにひかれて瀕死状態などになれば心配にもなるが、滅多なことでは心配しない。どうにかなると思っているし、そもそも心配しようという気が起らないのだからとやかく言っても仕方がない。私が心配の気持ちを解さない、よって他者に心配かけまいという風に考えることが難しかった理由の大旨はこのような具合である。

 痛みを悟られないよう振る舞うことによって生じた具体的苦悶を紹介したい。激烈に腹が痛んでいるとする。しかし当然信条に従って友人には微塵も悟られないようにする。そうしていると友人が「なんかおなか痛い。少し立ち止まらせていただく。うむむ。ううう。痛いよぉ」などと言い出す。ここで私は「大丈夫?」などと言うべきなのである。なぜかというとそう言わないと友人に、冷たい奴。と思われる危険性があるからである。言うまででもないが、私は友人が心配ではないからといって、その友人が嫌いなわけではなく、むしろ大好きなのである。だから友好関係を保つための無難な行為をしておきたい。しかし、「大丈夫?」と言う気にあまりならない。どうしよう。「大丈夫?」と言わないだけだと誤解されるので、その言わない理由を綿々と説明しようとも思ったが、腹が痛いのにそんなこと聞きたくないにきまっている。後日説明するにしても、大抵の人は面倒くさい奴、何言っているのかよくわらんと思うのがオチである。というか、滅多なことでは心配、同情を感じない自己をうまく説明できる自信もなかった。下手な説明で友人に、同情を感じないなんて人間の屑。と思われるのが嫌だった。今もこの心配、同情を感じない自分をうまく説明できている自信はないのだが。とにもかくにも、まあ、強情に「大丈夫?」と言わないよう気張るのも馬鹿らしいので、少々ぎこちなく「大丈夫?」と声をかけることにする。何故ぎこちないかというと、実際は全く「大丈夫?」などとは思っておらず、どんな顔をしていいかわからないからである。小学生のときはそれこそどうすればいいか分からなすぎて困惑、うすら笑みを浮かべて「大丈夫?」などと嘯いてしまい、そのため友人は弱っている自分を嘲笑された。と誤解、絶交になったりした。昔から私は嫌な奴である。大丈夫?と、うまく言えるようになったのは高校生になってからだ。眉毛をハの字にして低い声で言えばよい。とはいっても、喜ばしい事に最近心から同情、心配できるようになった。その経緯は省略するけれど。そういえばニーチェは同情をしてはいけないことだといっていて、その意見は私を正当化させるものだったから私はこれを賛美していた。けれど今、同情は悪い事だとは思わない、美しいというのは憚られるが、もしかしたら美しいことなのかもしれないとさえ思う。

 ぎこちなく「大丈夫?」と声をかけた。しかし私もおなかが痛くて涙がでそうな程なのだけど・・・と内心思っているのである。腹痛に必死に耐えながら友人の介抱をするという奇妙な事態になる。そのような事態を幾度も重ねるごとに、必死に痛みを悟られないようにすることが、なんだか阿呆らしくなってきた。第一私が「痛い」といったところでそこまで心配する人はいない。また、心配をかけたくないなどと思っていないのに、心配させないように行動する必要はないではないか。しかもどちらかというと私は少し心配されたい、と思っている。この真意は実に底意地の汚い軟弱、脆弱極まりない悪で認めたくなかった。しかし、これが現実の私であると認める事にした。そうした後で、心配されたいと思う事は悪なのか?と思い始めた。軟弱であるには違いないが、悪ではない。むしろ、強情な面ばかりより、そのような弱い面を見せた方が親近感もわくのではないか。人間が弱いのは当たり前ではないか。などと思った。痛いとアピールしたかったらアピールした方が自然であり、歪曲した理由で痛みを隠して、ケチ臭い鬱憤を抱えるよりは、「痛い」とかんじたときに素直に「痛い」と言った方が断然スッキリしているではないか。しかも必死に痛みを隠したところで、それが露見したとしても友人は水臭いなあ。と不服に思うかもしれない。純な動機から痛みを隠そうと思えるようになるまで、強情に強がることはやめようと思った。はじめての大きな妥協だった。

 私は苦痛を感じた時、そしてそれを知らせた方が都合か良いと思ったときは、素直に表現するように努めることにした。しかし幼少のころから苦痛を隠す努力ばかりしてきたので、苦痛に表現の仕方がよくわからない。わからないから熱で体が寒くて、寒くて、頭が痛くて、痛くて仕様がないのにキラキラした顔で「ちょっと熱っぽいかも」と言う。しかし「ちょっと熱っぽいかも」と笑顔でいっても、たいした事ではないと思われるのは当たり前で、あまり効果がない。苦痛の表現がうまくできない。まぁゆっくり練習していこう、と保健室に行く。保健室に入るときも、心配されたくないと思うクセが染み付いていてヘラヘラしながら「ちょっと熱はかってもいいですか」とかなんとか言いながら入る。しかし、実際熱は39度を上回っているのであって、早退することになる。それにしても痛みを表現するのも最近はうまくなった。眉毛をハの字にして弱々しい声で端的に苦痛を説明すればいい。この表現の習得が進歩なのか劣化なのかわからない。