文筆家
向田邦子の「父の詫び状」を読んでいた。
藤原道信の「男のくせに愚痴っぽい」うた等を挙げてから、
「昔も今も、物書き歌詠む殿方は心やさしく、
女流は男にまさる気性の烈しさを持っているのだろうか。
男がごく自然に人間本来の弱みをさらけ出しているのに引きかえ、
女は気負い、いま流行りのことばでいえば「突っぱって」いたのかも
知れないという気もする。」と向田さんの感想。
たしかにそうかもしれない。
文筆は、表現したい、からなされる。
表現したい、とどうしてそう強く思うのかというと
なにかの表現ができない、あるいは困難だからだ。
壁があるからこそ壁を破りたいと思う。
破りたくて壁を破っているわけではない。
つまり表現したいからしている、というよりは、
表現できないものという前提があって、そのできないものを表現したい、ということだ。
簡単に表現できるものならとっくに日常でおしゃべりやら何やらして表現しているので表現欲は溜まらない。
殿方は繊細な面を露出する抵抗が日常にあって、その欲求が大きい人こそが文筆活動で吐き出すことになる。女は共感性や清楚さが求められる中でその逆向きの何か荒々しいものを表現したくなる。そういうことを思った。
そんな抵抗を感じる必要は双方ないのだけれども、現状ではそういう抵抗がないとはいえないのだからしょうがない。
だから男の物書きはどこかか弱い印象、女は野蛮なかんじが、ちょっとあるんじゃないかな。
もちろんそういう傾向がある、というだけで
野蛮な表現の男性作家もおれば、繊細な表現がウリの女性作家もいる。というか、
もしかしたらそっちの方が多いのかもしれない。
いや、でもやっぱり本の内容はともかく、作家本人をみてみると男は繊細な印象、
女は突っ張ってる、気がする。周りの知人をみていても。
表現にはいろんな手法があるけれど文筆はそれが最も顕著な気がする
それはやっぱり、物を書くことは「物申す!」という側面が、
たとえば絵とか音楽とか彫刻とかダンスに比べて強い。あるいはてっとり早く物申せる。何よりもまずもの申したい!と思った人が選ぶのが文筆だからじゃないかな
14.7.7
四畳半でビール三本目の私より
くだものに最近恵まれてます
駄目になりそうなバナナは、凍らせるかコンポートにするといいです。
凍らせたバナナは意外にも結構美味しい。
祖母はバナナがテーブルにないと落ち着かないようでバナナを常備しています。
でも誰も食べなくて、どんどん黒くなって、あせる。
無理に食べたり、凍らせたりして、やっと消費したと思ったら
また買ってくる!またあせる。消費する。また買う!
「昔はバナナは食べたくても食べれなくて、憧れだった。
病気のときだけ食べれた。
大きくなったら毎日食べようと思ったとよ」
と、おっしゃるのでそっとしておく。