こんなブログがあったと思い出した
渋谷駅、地下のヒカリエ前を足早に歩いていたら、目の端に保険会社の広告が映った。
「人生には波がある」というような文句。
良いことと悪いことが順番にくる。
たしかに、そう感じる。
しかし、人間であれば万人、いいことと悪いことが順番にくる、という風に決まっているわけがない。
いいことと悪いこと、それは何か一定の基準があった上で生じる評価。
ということを前提にすれば、良いことと悪いことが順番にくるのは当然だ。
悪いという状態にある自分からすれば、その後訪れるほとんどのことは「快」であるし、
最高の状態からは、ほとんどの事情の変化が「不快」だろう。
「人生の波」は主観次第だ。
自分が設けた’幸福基準’により幸と不幸が峻別される。
だとすれば、基準を最低にすれば、常にラッキーなんじゃんと思う。
「人生の波」は、自分のお調子者スピリットが生み出す幻想にすぎない。
基準を、飢餓、戦争、天涯孤独にしようと思った。それで、毎日の評価が幸福となれば良いと思う。基準を恣意的にずらして上手いこと恒常的に調子にのるよう自身を誘導したら、スーパーマンみたいに万能感湧いてくるかもしらん、と、熱風渦巻く地下で一瞬思った。
文筆家
向田邦子の「父の詫び状」を読んでいた。
藤原道信の「男のくせに愚痴っぽい」うた等を挙げてから、
「昔も今も、物書き歌詠む殿方は心やさしく、
女流は男にまさる気性の烈しさを持っているのだろうか。
男がごく自然に人間本来の弱みをさらけ出しているのに引きかえ、
女は気負い、いま流行りのことばでいえば「突っぱって」いたのかも
知れないという気もする。」と向田さんの感想。
たしかにそうかもしれない。
文筆は、表現したい、からなされる。
表現したい、とどうしてそう強く思うのかというと
なにかの表現ができない、あるいは困難だからだ。
壁があるからこそ壁を破りたいと思う。
破りたくて壁を破っているわけではない。
つまり表現したいからしている、というよりは、
表現できないものという前提があって、そのできないものを表現したい、ということだ。
簡単に表現できるものならとっくに日常でおしゃべりやら何やらして表現しているので表現欲は溜まらない。
殿方は繊細な面を露出する抵抗が日常にあって、その欲求が大きい人こそが文筆活動で吐き出すことになる。女は共感性や清楚さが求められる中でその逆向きの何か荒々しいものを表現したくなる。そういうことを思った。
そんな抵抗を感じる必要は双方ないのだけれども、現状ではそういう抵抗がないとはいえないのだからしょうがない。
だから男の物書きはどこかか弱い印象、女は野蛮なかんじが、ちょっとあるんじゃないかな。
もちろんそういう傾向がある、というだけで
野蛮な表現の男性作家もおれば、繊細な表現がウリの女性作家もいる。というか、
もしかしたらそっちの方が多いのかもしれない。
いや、でもやっぱり本の内容はともかく、作家本人をみてみると男は繊細な印象、
女は突っ張ってる、気がする。周りの知人をみていても。
表現にはいろんな手法があるけれど文筆はそれが最も顕著な気がする
それはやっぱり、物を書くことは「物申す!」という側面が、
たとえば絵とか音楽とか彫刻とかダンスに比べて強い。あるいはてっとり早く物申せる。何よりもまずもの申したい!と思った人が選ぶのが文筆だからじゃないかな
14.7.7
四畳半でビール三本目の私より
くだものに最近恵まれてます
駄目になりそうなバナナは、凍らせるかコンポートにするといいです。
凍らせたバナナは意外にも結構美味しい。
祖母はバナナがテーブルにないと落ち着かないようでバナナを常備しています。
でも誰も食べなくて、どんどん黒くなって、あせる。
無理に食べたり、凍らせたりして、やっと消費したと思ったら
また買ってくる!またあせる。消費する。また買う!
「昔はバナナは食べたくても食べれなくて、憧れだった。
病気のときだけ食べれた。
大きくなったら毎日食べようと思ったとよ」
と、おっしゃるのでそっとしておく。
みんなの腰がオレンジだったら・・・
電気女
自分の電気で焦げてしまっている
太りました。
戻ります
赤毛の爪子
朝ドラ終わりましたね
抜毛なう
みんな回るのが好き!
滑り台にトライしましたが、ツルツルすぎて急降下、尻餅をついたようになって「うぅ」と言いました。婦人らの注目を浴び、おとなしくベンチ戻って日本酒を飲みました。
公園には子供がいっぱいいて、基本的にみんなクルクル回っていました
桜って一年のクルクル体験ですね。
木登りをするK君です。
ヨダレではなく煙草です。
ズボンが破れてしまいました
二日酔いの怨念/贅沢は丸い氷?/私の雑な夢
三月のおわりに大学の美術部で卒業旅行に行ってきました
熱海。みんなでみかん狩りをしました。
ちなみに私は二日酔いで大遅刻したので、みかん狩りできませんでした。電車の窓から大量のみかんの木と海がみえた。いつかリベンジしたいな〜
やさしいみんながくれたみかんを食べてみたら、とても甘くて甘くて、ジュースィーでした。
宇佐美の海にはうつぼの死体と大量のみかん?が転がっていたらしい。
みんなが一番興奮して報告してくれたことは、エロ本自販機の存在でした。
レトロな町なので東京では即取り締まられそうなブツが堂々とあるようです。
働くことに関して、生計重視か野たれ死んでも好きなことするか、というこの季節にピッタリで暗澹とした、でもフレッシュで甘酸っぱい話を帰りの電車でしていました。
G氏「そりゃどっちも必要でしょ〜」
Nちゃん「贅沢は好きだよ!」
Nちゃんにとって贅沢は、たとえば丸い氷の入ったお酒を、すてきなバーで飲むことらしい
私が最初に思いついた贅沢はバターレーズンだったのでバターレーズンを描いてみたけど芋虫みたいになってしまった・・・・・・つまようじを二本さしたのがよくなかった(幸いにも画像では見えにくい)
旅行は関係ないけど、私のささやかな夢。
バニーと茅ヶ崎の海辺??でパンケーキ???を食べる。
(二年前くらいに約束した)
パンケーキじゃなくていい、とりあえず朝食を、海辺のレストランで食べる!
海辺のレストランではなく砂浜になっちゃってるけど。
左が私で右がバニーね!!!!
http://www.youtube.com/watch?v=c_l4ZOVJ-ts
やたら海の絵が多いのはブリーダーズばかり聴いてるからだと思う
ブリーダーズは海なかんじがすると勝手におもってます
どの歌も海で泳いでる、潜ってる、浜辺にいる、
海岸ドライブしてるetc かんじかします。
ちなみにDivine Hammerはドライブです。
四月で桜も花束もサンバラです
今日から四月ですね。
大学の卒業式でかつさんにもらったお花はこの二本だけ生き残っています
私の絵は気を抜くと決まってホラーになります
変な拘りに妥協してる話
パソコンに保存されてるワード見てたら変なの出てきた
今はこんなこと書く情熱ないな
無駄に文体がおじさんぽいのはなんなんだろう
おもしろいから載せる
五年前の自分にこれ公開したっていったらヤメテーって言うだろうね
半分ギャグ、半分哀愁
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他者に痛みを悟られないよう、ぐっと自己の中で痛みを堪える。このような意思は、ともすると超人的で気高いことであると武者小路実篤はいう。私もそのことは物心のついたころから弁えていた。私にとってこの見解は考えてそのような結果に行き着いたというより、直感的に感じていたというべきだろう。痛みを感じて直接的に「痛い」と発言する者より、痛みをまるで何も感じていないかのように平然と振る舞う人物の方が格好よくないか。「痛い。痛い。」と喚く者の、そのアピールの理由は多種多様であろう。最も、痛いと思ったから痛いと言ったに過ぎないという理由が大半だと思われるが。では、痛みを悟られないようにする人物の心境はいかなるものか。それも色々であろうが、他者に心配をかけたくないというのが真っ当であると思う。他の理由があるのかと疑問に思われるかもしれないが、ある。例えば他者に心配をかけたくないという考えなんて実はさらさら無い。しかし、そのように振る舞うべきだと心得ているからそう振る舞う。また、そのような格好をして周囲に尊敬の念を抱かれたい。などという猪口才な考えから痛みを堪え、なんともないような涼しい顔をする者もいるといいうことである。というか私自身に伺えることなのであるが。
生来痛みを露出することは格好が悪いと思っていた。痛いからといって「痛い。痛い。」と言うのは三流のすることだと心得ていたのである。そして私は痛みを悟られないことを信条としていた。とはいっても自分は三流ではなく、一流の人間であるために、そのように振る舞おうとしていたわけでは決してない。その逆で、自分は自分を三流中の三流、汚らしい人間だと重々自覚しており、その現状を脱して、清い人間になりたいと熱望しているが故なのである。痛みを堪える精神の強さ、しかも人の同情を惹くなどということを望まず、他者に心配されないように痛みを堪える態度はまさに偉丈夫である。そうと知ったなら模倣せずにはいられない。偉丈夫になるために私は邁進。
痛みを堪え何くわぬ顔をする。そうすること自体は容易であった。15歳までそうしてきた。しかし、痛みを堪え隠すということを、他者に迷惑、心配をかけたくないという一心でしているのならよいのだが、私はそうではなかった。本当は心配をかけたくないなどとは、大して思っていなかった。しかし、だからといって「痛い、苦しい。」などと言うのはどうかと思う、格好が悪い。そうするより痛みを隠す方がずっと美しいと思った。また目算もあった。現在、自分は邪心に溢れていて他者へ心配をかけたくないと、頭では考えても心の底からは思えない。しかし、いずれそのように心から思えるようになるかもしれない。取りあえず今は表面だけでもそのように振る舞おう。そうしているうちに行動と心が呼応して真の偉丈夫になれるかもしれない。
しかし、心の底から人に心配をかけたくない、と思ってもいない輩がこの美行を続けるのは想像以上に厳しいことであった。そしてなかなか行動と心は呼応しなかった。10年程行動していても心との矛盾は解消されなかったのだ。今思えば当然であった。それは心が汚いからなどという胡散臭い理由ではなかった。それは他者が痛みを感じているのに対して滅多に心配しないという私の性質に起因していた。心配する者の気持ちがわからないのに心配させたら悪いという思想を抱こうとするのは少々無茶である。心配しないという性質は私の育った環境に依るものである。私は幼少のころから転んでも、熱がでても、絶望しても「大丈夫?」とは一遍も家族に言われた事が無い。そしてそれによって心を痛めるなどということはなく、これが当たり前であった。無論、熱が40度で発狂、ダンプカーにひかれて瀕死状態などになれば心配にもなるが、滅多なことでは心配しない。どうにかなると思っているし、そもそも心配しようという気が起らないのだからとやかく言っても仕方がない。私が心配の気持ちを解さない、よって他者に心配かけまいという風に考えることが難しかった理由の大旨はこのような具合である。
痛みを悟られないよう振る舞うことによって生じた具体的苦悶を紹介したい。激烈に腹が痛んでいるとする。しかし当然信条に従って友人には微塵も悟られないようにする。そうしていると友人が「なんかおなか痛い。少し立ち止まらせていただく。うむむ。ううう。痛いよぉ」などと言い出す。ここで私は「大丈夫?」などと言うべきなのである。なぜかというとそう言わないと友人に、冷たい奴。と思われる危険性があるからである。言うまででもないが、私は友人が心配ではないからといって、その友人が嫌いなわけではなく、むしろ大好きなのである。だから友好関係を保つための無難な行為をしておきたい。しかし、「大丈夫?」と言う気にあまりならない。どうしよう。「大丈夫?」と言わないだけだと誤解されるので、その言わない理由を綿々と説明しようとも思ったが、腹が痛いのにそんなこと聞きたくないにきまっている。後日説明するにしても、大抵の人は面倒くさい奴、何言っているのかよくわらんと思うのがオチである。というか、滅多なことでは心配、同情を感じない自己をうまく説明できる自信もなかった。下手な説明で友人に、同情を感じないなんて人間の屑。と思われるのが嫌だった。今もこの心配、同情を感じない自分をうまく説明できている自信はないのだが。とにもかくにも、まあ、強情に「大丈夫?」と言わないよう気張るのも馬鹿らしいので、少々ぎこちなく「大丈夫?」と声をかけることにする。何故ぎこちないかというと、実際は全く「大丈夫?」などとは思っておらず、どんな顔をしていいかわからないからである。小学生のときはそれこそどうすればいいか分からなすぎて困惑、うすら笑みを浮かべて「大丈夫?」などと嘯いてしまい、そのため友人は弱っている自分を嘲笑された。と誤解、絶交になったりした。昔から私は嫌な奴である。大丈夫?と、うまく言えるようになったのは高校生になってからだ。眉毛をハの字にして低い声で言えばよい。とはいっても、喜ばしい事に最近心から同情、心配できるようになった。その経緯は省略するけれど。そういえばニーチェは同情をしてはいけないことだといっていて、その意見は私を正当化させるものだったから私はこれを賛美していた。けれど今、同情は悪い事だとは思わない、美しいというのは憚られるが、もしかしたら美しいことなのかもしれないとさえ思う。
ぎこちなく「大丈夫?」と声をかけた。しかし私もおなかが痛くて涙がでそうな程なのだけど・・・と内心思っているのである。腹痛に必死に耐えながら友人の介抱をするという奇妙な事態になる。そのような事態を幾度も重ねるごとに、必死に痛みを悟られないようにすることが、なんだか阿呆らしくなってきた。第一私が「痛い」といったところでそこまで心配する人はいない。また、心配をかけたくないなどと思っていないのに、心配させないように行動する必要はないではないか。しかもどちらかというと私は少し心配されたい、と思っている。この真意は実に底意地の汚い軟弱、脆弱極まりない悪で認めたくなかった。しかし、これが現実の私であると認める事にした。そうした後で、心配されたいと思う事は悪なのか?と思い始めた。軟弱であるには違いないが、悪ではない。むしろ、強情な面ばかりより、そのような弱い面を見せた方が親近感もわくのではないか。人間が弱いのは当たり前ではないか。などと思った。痛いとアピールしたかったらアピールした方が自然であり、歪曲した理由で痛みを隠して、ケチ臭い鬱憤を抱えるよりは、「痛い」とかんじたときに素直に「痛い」と言った方が断然スッキリしているではないか。しかも必死に痛みを隠したところで、それが露見したとしても友人は水臭いなあ。と不服に思うかもしれない。純な動機から痛みを隠そうと思えるようになるまで、強情に強がることはやめようと思った。はじめての大きな妥協だった。
私は苦痛を感じた時、そしてそれを知らせた方が都合か良いと思ったときは、素直に表現するように努めることにした。しかし幼少のころから苦痛を隠す努力ばかりしてきたので、苦痛に表現の仕方がよくわからない。わからないから熱で体が寒くて、寒くて、頭が痛くて、痛くて仕様がないのにキラキラした顔で「ちょっと熱っぽいかも」と言う。しかし「ちょっと熱っぽいかも」と笑顔でいっても、たいした事ではないと思われるのは当たり前で、あまり効果がない。苦痛の表現がうまくできない。まぁゆっくり練習していこう、と保健室に行く。保健室に入るときも、心配されたくないと思うクセが染み付いていてヘラヘラしながら「ちょっと熱はかってもいいですか」とかなんとか言いながら入る。しかし、実際熱は39度を上回っているのであって、早退することになる。それにしても痛みを表現するのも最近はうまくなった。眉毛をハの字にして弱々しい声で端的に苦痛を説明すればいい。この表現の習得が進歩なのか劣化なのかわからない。